WRC2024/12/03

ミシェル・リザンから日本のみなさんへ

写真)イタリアの英雄ミキ・ビアジオンにインタビューするリザン。アイフェル・ラリ−・フェスティバルにて(提供:Michel Lizin)

写真)リザンは1991 年のラリー・デュ・コンドロスで2輪駆動マシンのオペル・カデット GSIで4輪駆動マシンのフォード・シエラ・コスワースを相手に2位でフィニッシュしている。(提供:Michel Lizin)

写真)友人でもある伝説的なカメラマンのヒュー・ビショップとリザン。(提供:Michel Lizin)

ラリーXモバイルにおいて連載170回に及んだ『Focus of the Rally』が今回で最終回を迎えることになりました。雑誌『ラリーX」から数えれば連載は35年に及ぶでしょう。ふだんは有料会員向けの連載でしたが、執筆者のミシェル・リザンより、どうしても日本のラリーファンにお別れをしたいとのことで、今回はウェブでも無料にて公開することにいたしました。ぜひご覧ください。(ラリーXモバイル運営事務局)

「日本のみなさん、ありがとうございました」

ラリー・ジャパンが盛り上がったことでしょう。私はこの原稿をラリーの前に書いています。このようなことは最初で最後になります。ラリーの進捗状況、最終ランキング、さまざまなチャンピオンシップにおける結末をあなたに向けて書かない、私からの最後の『フォーカス・オブ・ザ・ラリー』になります。

この『フォーカス・オブ・ザ・ラリー』を40年近くにわたって、ラリーを愛する日本の皆さんに読んでいただいてきたことは、ラリーというユニークな競技の多様な側面を拡大することに専念してきた人生にとって、大きな誇りでありこれからもそうあり続けるでしょう。私にとって、日本ほど、知識、経験、理解への渇望を感じる読者はありませんでした。どうしてこのように私の心にしみわたったのでしょうか! 今回の『フォーカス』では驚くべき遠距離交友の話をしましょう。

私が最初に柴田久仁夫から連絡をもらったとき、彼の言葉は私を驚かせました。「あなたのグローバルなアプローチ、生き生きとした語り口、感情を具体化する方法。あなたの原稿は日本のファンはきっと気に入るでしょう」

熱烈なトーンでした。思いもしないことでした。私はこう答えました。「私はもっぱらフランス語で書いていますし、日本にはほとんど知り合いがいませんから・・・」

クニオは私の答えを無視するように「私が何とかします。私があなたとコンタクトを取ります。心配しないで、私があなたの翻訳者になって埋め合わせをしますから・・・」。

このやりとりは40年以上も前にさかのぼります。クニオは当時、パリに住んでいました。フランス語の知識は完璧でした。『オートヘブド』が彼に私の連絡先を教え、上述のようなやりとりがあったあと、こうして『ラリーX』とのコラボレーションが始まったのです。

『フォーカスフォーカス・オブ・ザ・ラリー』はすぐに連載となりました。その後、『レーシング・オン』や『オートスポーツ』など、日本の雑誌からも定期的に声がかかるようにもなりました。『ラリーエクスプレス』の雑誌が廃刊になったあと、それに置き換わって私の日本での仕事は主に「Rally+」および 『Rally Cars』になりました。

ラリー・ジャパンの翌日、2024年11月25日月曜日、私は76歳の誕生日を迎えます。記憶力はまだそこそこありますが、年齢とともに2012年7月5日、開胸手術の最中に私を襲った脳卒中によって私の頭も衰えています。私の命を救い、脳への損傷を最小限に抑えてくれたジャン=ポール・ラヴィーン医師と彼の外科チームにはいまも感謝しています。

私は家にいます。私のソファーから、あなたの国で起こっている出来事について何が話せるでしょうか。あなたは私より詳しく知っているでしょう。それに、私はあなたに何かを「教えたい」と思ったことはありません。私はただ、ラリーがもたらす格別な感情を少しでもあなたに伝えようと努めてきただけです。

ラリーは私の命でした。ラリーにはすべてがあります。風景、叙事詩、競争、世界の息吹、さらにはテクノロジー・・・それらすべてをラリーは持っています。私の高齢と相まって、スタートの最初からイベントの端までのややこしい計算式に基づいた「新しいポイントシステム」の誕生は、私の揺るぎない熱意をついに蝕んでしまいました。

日本の読者の皆さんがどのような媒体を使って私の戯言を見ているにせよ、そうではないにせよ、みなさんに対して情熱を失ったわけではありません。日本には人生で6回しか行ったことはありませんが、なぜかいつも日本の人々には特別な感情を抱いてきました。少なくとも、モータースポーツ、とりわけラリーに少しでも興味を持つ人々には。

いま私は「なぜだかわからない」と書きましたが、実は正確な理由はわかっているのかもしれません。私が日本を愛しているのは、幸運にも知り合えた日本人のおかげなのです。クニオのことは書きましたが、WRCのプレスルームで長い間一緒に仕事をした編集人たち。平松秀樹は、いつも私に何かひとつ、あるいは別の角度からの分析を提案するコツをつかんでいました。倒産した出版社から『ラリーX』を救いだし、『ラリーXモバイル』に生まれ変わったとき、再び連絡をくれた平出博には感謝しています。

日本のメディアに向けた取材では、グループ4であれ、グループAであれ、グループ2であれ、グループBであれ、WRCであれ、古いラリーカーはすべて「歴史」であり、それを見事に乗りこなした人々と再会する機会を与えてくれました。カルロス・サインツからユハ・カンクネンまで、ディディエ・オリオールからペター・ソルベルグまで、トミ・マキネンからマルコム・ウィルソンまで、ティモ・サロネンからフランソワ・デルクールまで、アリ・ヴァタネンからジル・パニッツィまで、セバスチャン・ローブからセバスチャン・オジエまで、ヴァルター・ロールからミキ・ビアシオンまで、例外なく彼らはみな、私が彼らに懇願したインタビューの終了を決して急ぐことなく、私が彼らと再び連絡を取ることをとても喜んでいるように見えたものです。

この半世紀の間、私のラリーへのささやかな寄稿は、まずベルギーで、次にフランスで、そしてもちろん日本でも、ポルトガル(『オートスポーツ』と『ヴォランテ』)、イタリア(『アウトスプリント』と『ロンボ』)、スペインでも出版されてきました。ヨーロッパで「ラテン」と呼ばれる精神状態が支配するこれらの国でラリーがとびきり愛されるのは、偶然の結果であるはずがありません。日本の友人やラリーファンの皆さんも、私と同じようにこのスポーツを愛する「深い感性」を共有しているのでしょう。

「リザン、リザン!」。サービスパークで彼らが私の目の前で『ラリーX』誌を広げ、私が連載する『フォーカス・オブ・ザ・ラリー』 にみなさんがサインをするよう差し出してきたことが今でも目に浮かびます。いったいどうして私がみなさんに認識されたでしょうか? 私がドライバー、エンジニア、チームのボスとの取材の約束に遅刻しないように、この即席の「サイン会」を途中で中断しなければならなかったときのみなさんの失望した様子を見るのは耐えられませんでした。

2004年から2007年にかけて帯広を訪れたときほど、『ラリー・エクスプレス』にサインをしたことはありませんでした。もう20年も前のことです! ベルギーのユイでサインを求められたこともありましたが、それはジャーナリストとしてではなく、私の地元で開催されたヨーロッパ選手権のラウンドのコンドロス・ラリーに何度か参加し、成功を収めたからでした。

自分のことばかり話してごめんなさい。そんなつもりはなかったです。

さまざまな日本の人たちの顔が浮かびます。「テッシ」こと手島正俊は、効果的なユーモアを交えて三菱ラリーアート・チームのPRを長く務めていました。そして彼以前では、1970年代以降、2人の日本人写真家が私のラリーにおける人生と文化の形成に貢献してくれました。

清木博志はいつも一人で、レンタカーのハンドルを握ってラリーを追っていました。ロードマップを傍らに、あるいは膝の上に置いて、彼は自分の旅程を描いていました。夕方になると、彼はパブやレストランで私たちと待ち合わせ、一緒に夜を過ごしました。私たちとは、ヒュー・ビショップと二村保を指すことが非常に多かったです。ラリー写真のパイオニアであるこの2人に対して、私はいつも限りない愛情と深い友情を持っていました。

彼らは私より先にそこにいました。偉大な世界ラリー選手権がまだ創設されていなかった時代からこのスポーツを追いかけていました。ラリーの写真を撮るのが冒険だった時代でした。だから当然、彼らは私を歓迎してくれました。私は雑誌の記者と一緒にラリーを追ったことはほとんどありませんでした。メディアルームに入ったこともほとんどありませんでした! 

私はいつも森の匂いや香り、オーバーヒートしたタイヤや排気ガス、限界まで回るエンジンの音、遅れたブレーキング、三次元的なドライビング、綿密に計算された軌跡、完璧にコントロールされた(またはそうでない)ドリフトやスライド・・・この絶え間なく新しく繰り広げられるスペクタクルが、私の人生の 「カム」なのです。

寄稿した雑誌が定期的に発行されていたおかげで、私はそうすることができたし、写真家たち、とりわけヒューやタモツと一緒に「現場」で過ごすことをけっして止めませんでした。

二人とも亡くなりましたが、彼らはアーティストでした。まったく異なる方法で。ヒューは私たちに共通するラリーへの愛を「報告」し「共有」したいと考えていました。しかし、タモツはそうではありませんでした。彼はラリーで人々を自分の世界に引き込み、どこにでも、どこへでも連れて行ってもらいました。

すでに長くなりすぎてしまいましたが、タモツから依頼された彼の写真集のために私が執筆した2つの文章について紹介させてください。これはタモツへの頌歌です。最新のものは2011年のものになります。以下はその抜粋です。

「二村保と他のラリーフォトグラファーとの間には、性質、視点、ビジョンの違いがある。他の写真家たちはラリーを映し出し、その様々な側面を強調し、多面的なスポーツを支持し、そしておそらくラリーの存在を利用する」

「二村はそうではない。彼は存在する。事前に。彼は自分が何を表現したいかを知っている。他の人がバイオリンや筆、パレットやキャンバスを使うように、彼は自分の内なる世界を明らかにするためにラリーを使うだけなのだ。このルールの逆転が違いを生む。なぜなら、保の野心はラリー全体を見せることではないからだ。彼は自分が感じたものを提供する。それで十分なのだ」

「その味わいと深さを理解するには、その世界に進んで入っていかなければならない。物憂さ、憂鬱さ、ハーフトーンへの愛からなる気分に、ゆっくりと浸ることを許さなければならない。二村の作品を見ていると、写真について語るのに『スナップショット』という言葉を使うことがいかに不自然なことかがわかる」

その20年近く前、90年代初頭に、私の文章が彼の著書『フィニッシュ』に添えられたこともあります。

「後部座席に横たわり、大量の防寒着とカラフルなジャケットに埋もれて眠る。ステージからステージへと移動する車の中で、保は居眠りをし、うなだれ、タバコに火をつけ、そして何よりも眠る」

「タモツ、着いたぞ!」

「保は友人の選び方を心得ている。彼の旅の仲間は経験豊富だ。彼らは旅程の立て方、道路地図の読み方、最も興味深い場所や最も混雑しているサービスパークの見分け方を知っている。彼がいなくてもすべてが完璧に計画されているのだから、心配する必要はないだろう」

「タモツ、着いたぞ!」

「厚い衣服の表面に、頭が現れる。鼻を鳴らしてゆっくりと動き出す。二村はフォロワーではない。彼はクリエイターだ。そして一匹狼だ。信頼するニコンのカメラと複数のレンズを手にするやいなや、彼は尋ねた。『何時に集合ですか?』。そして立ち去る」

「彼はベストスポットやベストアングルについて他人に言われることには興味がない。彼はひとりでいることを好み、自分のビジョンにゆっくりと身を任せる。二村は報道写真家ではない。彼の目的は、ラリーという複雑で魅力的なスポーツのさまざまな側面をレポートすることではない。その仕事は他の人に任せている。アートフォトグラファーとして、彼はラリーを媒介に自分の世界観を表現するのだ。あるいは、彼の世界のビジョンを」

その結果、彼は草原や森、雑木林を長い間歩き回り、時には奇妙で、常に独創的なショットを撮ることになりました。丘の上で、真夜中で、沼地の端で。喧騒には無関心に見えますが、常に目を光らせ、写真を通して、彼にとって最も強烈な瞬間を感じる方法を生き、永続させる準備はできています。次のラリーに参加するときは、丘の頂上で、真夜中で、沼地の端で、自然の中で溺れ、道に迷いながらも完璧に本領を発揮しているこの小さな人影に目を凝らしてほしい。一見、喧騒に無関心に見えますが、常に目を光らせ、写真を通して、彼にとって最も強烈な瞬間を感じ取り、生き続ける準備ができている。遠くから、この姿に手を振ってみてください、間違いなく二村保ですから。

別れは嫌いです。長くなってごめんなさい。感情が溢れだしてきます。

私はここでペンを止めることにします。これまでありがとうございます。皆さんに幸あれ!

ミシェル・リザン